『デッドオアアライブ』『NINJA GAIDEN』といった格闘・アクションゲームの世界で一時代を築いた、日本を代表するゲームクリエイター板垣伴信(いたがき とものぶ)氏。
2025年10月16日、彼の訃報がFacebook上の投稿によって伝えられ、多くのファンやゲーム関係者に衝撃を与えました。
本記事では、板垣氏の生涯や経歴、家族構成を振り返るとともに、**死因に関する情報や、残された“最後の言葉”**に込められた想いまでを丁寧に紐解いていきます。
■板垣伴信のプロフィールと年齢
まずは、彼の基本情報を整理しておきましょう。
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 板垣 伴信(いたがき とものぶ) |
生年月日 | 1967年4月1日 |
没年月日 | 2025年10月16日 |
年齢 | 58歳(享年) |
出身地 | 東京都 |
学歴 | 早稲田大学 法学部 卒業 |
職業 | ゲームディレクター/プロデューサー |
代表作 | 『DEAD OR ALIVE』『NINJA GAIDEN』 |
最終所属 | 株式会社板垣ゲームズ(代表) |
早稲田大学卒業後にテクモに入社し、当時はまだ珍しかった3D格闘ゲームの開発に取り組んだ人物として知られます。
その独自の美学と哲学は、作品の世界観やキャラクター造形にも色濃く反映されていました。
■経歴:挑戦と闘争に満ちた開発者人生
● テクモ時代:Team NINJAを率いる
1992年、板垣氏はゲームメーカー・テクモに入社。当初は企画志望でしたが、プログラミング能力も買われて開発部門に配属されました。
その後、1996年に『デッドオアアライブ』を手がけ、社内に「Team NINJA」という専門開発チームを立ち上げます。
このチームは後に『NINJA GAIDEN』のリメイクシリーズなどを担当し、国内外から高い評価を得ることになります。
● テクモ退社と訴訟騒動
2008年には、当時のテクモ経営陣に対して成功報酬未払いと慰謝料の支払いを求めて法的措置を取るという騒動が発生。最終的にはテクモを退社し、後に和解に至りました。
この一件は当時業界でも大きな話題となり、板垣氏の“信念を貫くスタイル”が賛否両論を巻き起こすこととなります。
● 独立後の活動:ヴァルハラ〜板垣ゲームズ
テクモ退社後は、元部下らとともに「ヴァルハラゲームスタジオ」を設立。後に自身の名を冠した板垣プロダクションを立ち上げ、2021年には「板垣ゲームズ合同会社」の設立を発表しました。
しかし2024年にはこれらの法人が相次いで清算され、事実上の活動縮小状態にあったとされています。
■Facebookに投稿された“最後のメッセージ”
板垣氏の訃報が伝えられたのは、2025年10月16日。
彼のFacebookには、本人が生前に予約投稿として設定していたとみられる“遺言のようなメッセージ”が投稿されました。
その文章は以下のようなものでした(一部要約):
「この投稿が表示されているということは、私はすでにこの世にはいない。
私の人生は戦いの連続であり、信念に従い闘い抜いた。
悔いはない。だが、ファンの皆には新作を届けられなかったことが唯一の心残りだ。ごめん。
So it goes.」
この言葉には、クリエイターとしての誇り、そしてゲーム業界への深い愛情が滲んでいました。
彼がいかに「作品」と「ユーザー」を大切にしていたかが伝わる印象的なメッセージとなっています。
■死因・病気の詳細は?
現時点で、板垣伴信氏の具体的な死因や持病の有無について、公式な発表はされていません。
一部では、Facebookの投稿文から「長期的な闘病」を想起させる表現があることから、
- 持病(癌や心疾患など)を抱えていた可能性
- 徐々に衰弱しながらも準備していた投稿
などが憶測として語られていますが、確定的な事実ではありません。
「命の灯が尽きようとしている」といった文面から、病死の可能性が高いとも考えられますが、本人や遺族が詳細を公にしていない以上、これ以上の詮索は慎むべきでしょう。
■家族構成:妻と娘の存在
板垣氏のプライベートはあまりメディアで取り上げられることが多くはありませんでしたが、Wikipediaなどの情報によれば、妻と娘が1人いることがわかっています。
生前のインタビューでも、彼は時折“父親としての顔”を見せる一面もあり、仕事一辺倒ではなく、家庭も大切にしていた人物だったようです。
なお、Facebook投稿で“この投稿は大切な人にお願いしている”と明かしていることからも、近しい家族が最期までそばにいたことがうかがえます。
■なぜファンから慕われたのか?板垣氏の魅力
板垣氏の発言は歯に衣着せぬスタイルで知られ、「正直すぎる」「尖りすぎ」と評されることもありました。
しかし一方で、そこにはゲーム業界に対する真摯な姿勢があり、ファンからの信頼は厚いものでした。
- 開発者との対談で互いの作品に本音で意見をぶつける
- 自ら「趣味:ゲーム制作」と語るほどの情熱
- “海外向けではなく、日本発の面白さ”を追求し続けた姿勢
彼はいつでも“自分のゲーム”に命を賭けていた人物でした。
■業界関係者やファンからの反応
訃報が明らかになるやいなや、国内外のゲーム業界から追悼の声が相次ぎました。
中でも注目を集めたのは、格闘ゲーム『鉄拳』シリーズのプロデューサー原田勝弘氏によるコメント。
かつて論争を繰り広げた間柄でもある両者でしたが、SNS上で心のこもった哀悼の意を表明し、多くのファンが感動を共有しました。
また、かつてのファンたちも「板垣作品に救われた」「思春期のゲーム体験の中核だった」とSNSで語るなど、彼の作品が与えた影響の大きさを改めて認識する機会となっています。
■まとめ:信念を貫いたゲームクリエイターの最期
板垣伴信氏の人生は、まさに「戦いの連続」だったのかもしれません。
テクモ時代の開発から独立、訴訟、そして独自ブランドの設立と解散……
そのどれもが、“自分の信じるゲーム”を作り続けるという覚悟の現れだったように感じられます。
彼が生み出した数々のゲームは、これからも多くの人の心の中で生き続けていくでしょう。
最期のメッセージに記された「So it goes.(それが人生だ)」という言葉には、どこか達観した優しさと、少しの寂しさが混ざっているようにも感じます。
板垣伴信氏のご冥福を、心からお祈り申し上げます。
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