日本プロレス界を長年支え続けたレフェリー、笹崎勝巳(ささざき かつみ)さん。
「タイガー勝巳」「タイガー笹崎」の愛称で親しまれ、選手にもファンにも信頼される存在でした。
2025年10月、惜しくも60歳でこの世を去った笹崎さんの人生を、経歴・学歴・家族・人柄とともに振り返ります。
笹崎勝巳のプロフィール
名前 | 笹崎 勝巳(ささざき かつみ) |
---|---|
リングネーム | タイガー勝巳/タイガー笹崎 |
生年月日 | 1965年2月12日 |
没年月日 | 2025年10月16日(享年60) |
出身地 | 東京都板橋区 |
職業 | プロレスレフェリー/プロモーター/経営者 |
所属 | ZERO1、全日本プロレス審判部(非常勤) |
通称 | タイガー勝巳 |
前職 | 株式会社ドリームオンステージ代表取締役社長(2018〜2020) |
学歴と生い立ち
笹崎勝巳さんは東京都板橋区に生まれ育ちました。幼少期からスポーツが得意で、特に格闘技やプロレス観戦に強い関心を抱いていたといいます。
高校卒業後、プロレス関係の裏方スタッフとしてキャリアをスタートさせ、やがてレフェリーとしての才能を発揮。
学歴の詳細は公表されていませんが、学生時代から「プロレス業界で生きていく」と決意していたようです。
経歴|ゼロワンを支えた名レフェリー
笹崎勝巳さんは、1980年代後半から女子プロレス界でレフェリーを務めた後、全日本女子プロレスやZERO1、全日本プロレスなど、男女問わず多くの団体で活躍しました。
愛称の「タイガー」は、試合中の的確なジャッジと俊敏な動きから名付けられたものです。
全日本女子プロレス時代
笹崎さんがキャリア初期に所属したのは全日本女子プロレス。
当時は「ハリセン太郎」と名乗り、ミゼット(小人)プロレスの試合も担当。観客を笑わせながらも、試合をきっちり裁く“名レフェリー”として人気を集めました。
ZERO1・全日本プロレスでの活動
2000年代以降は、プロレスリングZERO1や全日本プロレスの主要試合を担当。ZERO1では審判部長も務め、若手レフェリーの育成にも尽力しました。
また、スターダムなど女子団体の試合も裁き、団体を超えて活躍。
ファンの間では「誤爆シーンが絵になるレフェリー」としても知られ、選手の技を誤って受けてしまう場面が名物にもなっていました。
経営者としての一面
2018年には、ZERO1を運営する株式会社ドリームオンステージの社長に就任。
リングだけでなく経営面でも団体を支え、若手育成や地方大会の企画などに携わりました。
2020年に経営の第一線を退きましたが、その後も審判部長としてZERO1と関わりを持ち続けました。
プライベート|結婚・妻・子供・家族構成
笹崎勝巳さんの結婚や家族(妻・子供)に関する詳細な公表はありません。
SNSでもプライベートな話題はほとんど語られず、仕事一筋の人生だったといわれています。
関係者の証言によると、笹崎さんは非常に家庭的な一面を持ち、周囲には「家族の支えがあってこそリングに立てる」と話していたそうです。
そのことから、結婚して家庭を持っていた可能性は高いものの、公式な記録は残されていません。
人柄と仕事への姿勢
笹崎さんは、リング上での冷静な判断と同時に、裏では若手レスラーに対する面倒見の良さで知られていました。
「プロレスの中心は選手ではなく観客。レフェリーはその橋渡し役」という持論を持ち、観客に感動を与えるため常に全力を尽くしていたといいます。
そのため、レスラーからの信頼も厚く、「笹崎さんのジャッジなら納得できる」と語る選手も多くいました。
最期と訃報
2025年10月16日、笹崎勝巳さんは岩手県北上市の瀬美温泉で作業中、熊に襲われ命を落としました(享年60)。
この衝撃的なニュースはプロレス界に大きな悲しみを与え、ZERO1やスターダムの関係者が次々に追悼コメントを発表。
長年の盟友であるロッシー小川氏も「プロレス界の功労者を失った」と深い哀悼の意を表しました。
エピソード・功績
- リング上で誤爆を受けても最後まで試合を成立させるプロ根性。
- 女子プロレスから男子団体まで、幅広く活躍した希少なレフェリー。
- ZERO1創設期からの支え手として、団体を陰で支え続けた功績。
- 選手やスタッフを常に「家族」と呼び、チームの絆を重視していた。
まとめ|笹崎勝巳という人物像
笹崎勝巳さんは、プロレスの世界において「縁の下の力持ち」と呼ばれる存在でした。
彼の的確なレフェリングと人間味あふれる対応は、観客の記憶にも深く刻まれています。
華やかなスポットライトの裏で、試合を成立させる責任を背負い続けた60年の人生。
仕事に誇りを持ち、最後までプロレスを愛し抜いたその姿勢は、後進にとっても大きな教訓となっています。
心よりご冥福をお祈りします。