「人はどこで、どのように人生を終えるのか」。それは誰にも予測できません。特に、海を越えた異国の地で、すべてを失ったひとりの日本人男性の最期が、多くの視聴者の胸を打ちました。
フジテレビ系ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』で取り上げられた「私の父のなれのはて」シリーズ。その主役となったのが、平山さんという名の日本人男性です。
かつて家族と共に日本で暮らし、普通の仕事をしながら生計を立てていた彼。しかし、一つの選択、一人の知人との出会いが、彼の人生を大きく狂わせていくことになります。
この記事では、「なれのはて」とまで表現される平山さんの人生に迫り、彼がどのような経緯でフィリピンに渡り、どんな現実に直面し、今どのような暮らしをしているのかを詳しくご紹介します。
■平山さんの経歴とプロフィール:普通の労働者から“異国での漂流生活”へ
平山さんは日本でトラックの運転手や建設現場の作業員として働いていたごく一般的な労働者でした。妻子のいる家庭を持ち、一家の大黒柱として過ごしていたといいます。
しかし2004年、彼の人生に転機が訪れます。知人から「フィリピンで日本食レストランを一緒に立ち上げよう」と持ちかけられたのです。
未来を信じ、平山さんはこの話に乗り、借金をしてまで資金を準備。家族と別れ、フィリピンへと旅立ちました。
■裏切りのカジノと“全財産の消失”
ところが現地に到着した後、事態は急変します。
「一緒に開業しよう」と約束していた知人が、なんとその開業資金をカジノで使い果たしてしまったのです。平山さんの夢は、わずか数日で音を立てて崩れました。
残されたのは、一文無しの現実と帰国する費用すら持たない状態。まさに「無一文」となった平山さんは、日本へ戻る手段すら失い、現地での“漂流生活”が始まります。
■帰国不能、行き場のない日々を乗り越えて
帰国を断念した平山さんは、しばらくの間、フィリピン国内の知人の家を転々とする生活を続けていました。居場所も安定せず、食事も不安定、電気のない暗闇の中で過ごすこともしばしばだったといいます。
そんな過酷な環境下でも、彼は自らの力で生きる道を模索。マニラで乗り合いバス(ジプニー)の呼び込み役をしながら、もらえるわずかなチップで食いつないでいました。
言葉も文化も違う土地で、家も金もなく、孤独な日々が続く中、それでも平山さんは生きることをやめなかったのです。
■フィリピンで出会った新しい家族
絶望の底にいた平山さんに、希望の光をもたらしたのは現地で出会ったフィリピン人女性・テスさんでした。彼女と出会い、やがて事実婚のような関係に発展。二人の間には娘・マリコさんが生まれました。
経済的には決して余裕のある生活ではありませんでしたが、それでも平山さんは「家族と呼べる人たちと日々を過ごせる幸せ」を大切に感じていたようです。
特に印象的なのは、彼が日本の昭和歌謡を口ずさみながら食卓を囲むシーン。わずかな電灯の明かりの中でも、笑顔を絶やさず、娘との生活を慈しんでいる様子が映し出されました。
■そして再会を願う“もうひとりの娘”の存在
フィリピンで新たな家族を得た平山さんですが、日本に残してきた娘さんへの思いは今も胸の中にあったといいます。
「もう一度、あの子に会いたい」。取材中、そう漏らす彼の表情は、何年も連絡が途絶えた実の娘を想い、後悔や寂しさがにじむものでした。
番組スタッフはその言葉を受け、日本で彼の娘を探し始めます。しかし、すでに結婚して名前も変わり、居場所も分からなくなっているとのことで、再会は簡単ではありませんでした。
■最期の闘病と“家族のかたち”
2023年、平山さんの人生に再び大きな試練が訪れます。長年連れ添ったパートナーのテスさんが亡くなったのです。
その喪失から間もなく、平山さん自身も冠動脈血栓症を発症し倒れてしまいます。手術をすれば回復の可能性はあると言われたものの、医療費を支払う余裕がなく、退院せざるを得ませんでした。
その後は、テスさんの連れ子であるプリンセスさんと、実の娘マリコさんが彼の看病を引き受け、最後まで支え続けました。
もはや体を起こすことすら困難になった平山さんですが、取材班との会話の中で「こんな状況でも、家族に囲まれて幸せだよ」と語る姿が印象的でした。
■“なれのはて”に宿る、本当の意味の「幸福」
この一連のドキュメンタリーのナレーションを務めたのは、女優の尾野真千子さん。彼女は収録後にこう語っています。
「こんなに大変な人生だったのに、平山さんは笑っていました。人に“ありがとう”って言ってもらえる人で、まわりに家族がいて、友達がいて…。これって、ある意味でとても豊かな人生なんだと思います」
番組の中で語られた、「もし日本にいたら孤独死していたかもしれない。でもフィリピンでは、人と人が助け合って生きている」――この言葉は、私たちに今の社会を見つめ直す問いかけを投げかけています。
■平山さんの人生から見える、日本人社会の“孤独”
平山さんは、すべてを失いながらもフィリピンで“居場所”を見つけました。彼の暮らしは決して裕福ではなかったかもしれません。それでも、最期のときを家族に囲まれて迎えることができたのです。
「孤独ではなく、幸せな人生だった」と語るナレーターの言葉には、確かな説得力がありました。
対して、日本では高齢者の孤独死が深刻な社会問題となっています。生活は安定していても、誰とも接点がなく亡くなっていく人々が後を絶ちません。
平山さんの物語は、ただのドキュメンタリーではなく、現代社会に生きる私たち一人ひとりへの“生き方”に対するヒントなのかもしれません。
■平山さん(ノンフィクション)の人生まとめ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 平山さん(フルネーム:平山敏春) |
| 年齢 | 64歳(渡航当時)→75歳(最晩年) |
| 出身地 | 日本(詳細不明) |
| 職歴 | トラック運転手・土木作業員 |
| 渡航時期 | 2004年ごろ |
| 渡航理由 | 知人と日本料理店開業のため |
| 失敗要因 | 知人に資金をカジノで使い込まれる |
| 家族構成 | 日本に娘1人、フィリピンに内縁妻テス・娘マリコ |
| 晩年 | 病に倒れ、娘と連れ子に支えられて最期を迎える |
| 番組 | 『ザ・ノンフィクション 私の父のなれのはて』シリーズ |
■編集後記:なれのはては、終わりではなく“人間らしさ”の証
「なれのはて」と聞くと、多くの人は“破滅”や“悲惨”を連想するかもしれません。しかし、平山さんの生き様を知ると、その言葉に違う意味合いが見えてきます。
彼は、何もかもを失った先で、人と人の絆に支えられ、あたたかい最期を迎えました。それは、金銭的な豊かさでは決して得られない、人間の尊厳に満ちた人生だったのではないでしょうか。
この物語が、今を生きるあなたの心に少しでも何かを残してくれたのなら、それこそが「ノンフィクション」の持つ力だと、私は信じています。

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